屯田地区の歴史
入植期
昼間でも薄暗く、クマやシカ・キツネがたくさん住んでいた原生林に覆われたこの地に、明治22年7月15日最後の士族屯田兵(9番目の屯田兵村)として、徳島・和歌山・山口・福岡・熊本・福井・石川の7県から220戸(1056人)が入植し、篠路兵村が誕生しました。旧石狩川(現茨戸川)に隣接するこの地は、当時は低湿地の原野で開墾には大変な苦労がありました。春の雪解け時や夏から秋の大雨のたびに洪水に見舞われ、更に凶作にも見舞われ、道半ばにして無念の離村をする人々が続き、明治38年には72世帯(555人)の寒村になりました。
明治39年に篠路村から同じ屯田兵によって開墾された琴似村に移管されました。また、このままでは、村がなくなるとの思いから兵村資産の売却や借金で畑作から稲作への大転換を大正時代に成功させ、美田の続く札幌の穀倉としての地位を確立しました。その後少しずつ人口も増え続け、篠路兵村は昭和17年琴似村の町制施行により琴似町大字屯田なりました。そして、琴似町が札幌市と合併した昭和30年代になりようやく入植時の人口を超えました。
開発期
昭和40年代に入り、北海道住宅供給公社の屯田団地開発に続き民間企業による大規模開発により、札幌の一大住宅地となりました。一方、パン食の普及にともない米の消費が減少し、農業政策も減反へと大きく変わり水田も減少を続け、更に札幌の都市化とともに水田用の取水も年々困難になり、遂に昭和53年創成川の水利権を放棄し、この年を最後に屯田から水田が消え、再び開拓時代の畑作地帯へと戻りました。
現在は、住宅地の所々にわずかに残るジャガイモ畑が郷愁を誘います。